種字とその文字が表す仏様について


49日の表書きは何を書いたらいいんでしょうか?教えてください。

49日の表書きは何を書いたらいいんでしょうか?教えてください。

浄土真宗以外の仏教では、人は亡くなって49日で「仏」となる、と考えられています。
そのことから仏教であれば「御仏(佛)前」と表書きをします。
神道であれば「御神前」・「御榊料」・「御玉串料」、キリスト教であれば「御花料」が適しています。
仏教は「御香料」や「御供物料」でも大丈夫ですよ。
相手の宗派が分からない場合は、ご自分の宗派に沿った表書きでかまわないとされています。

亡くなった方は四十九日の法要で成仏するのだそうですから、御霊前・御香料・御供料のいずれかで良いでしょう。

四十九日を過ぎれば御仏前が一般的です。

御仏前と書きます。


御仏前と御霊前の違いを教えてください。 それと、なぜお通夜とお葬式で別の名前...

御仏前と御霊前の違いを教えてください。

それと、なぜお通夜とお葬式で別の名前なんでしょうか。

御霊前
仏教では人は亡くなると霊になり49日の旅に出て仏の元へ行くとされています
その霊の期間の時の表書きです
御仏前
49日の旅が終わり仏になった時に使う表書き
通夜
本来の意味は故人と家族の最後の夜という意味
夜を通して故人の側にいてあげるということです
葬式
葬式は正確に告別式と葬儀式が合わさったもの
告別式は家族と故人がお別れをする社会的儀式で葬儀式とは宗教者(僧侶)がこの世からあの世へ引導を渡す宗教儀式と言われている
昔告別式はなく初めて告別式をしたのが中江兆民とされ現在に伝わり一般化したと言われている
ちなみに仏教の中で浄土真宗(西・東)
日蓮正宗は霊の存在を認めていないので霊の期間がない
よって葬儀の際でも御霊前ではなく御仏前を使う
他宗派は49日の法要までは霊の存在であるので御霊前で次の法要である百か日や一周忌は御仏前となる
理由は上の通り
表書きは宗派によって御霊前は使えず御香典や御香資が共通に使えます

仏教ならご仏前だと思いますが、真言宗などは御霊前も使いますね。
とりあえず仏教はご仏前(ご香典・御香志等)で間違いないです。
霊(タマ)は嫌う宗派もありますし。
通夜と葬儀で別の名前とはどういう意味でしょう?
違う儀式なのだから当然違う名前ですけど。
ご仏前を持って行くのに、お通夜と葬儀で表書きを変える必要もないです。

葬儀のときのお香典を入れるものには「御霊前」袋を。
葬儀後の七・七日忌や、百ヶ日忌、年回法要等の香典には「御仏前」袋を用います。

お通夜は、知らせを受けた故人や親族の関係者や、常々お世話になっていたご近所町内会の方々に、故人を偲んでお集まりいただく大切な儀式です。
お葬式とは、遺された者による死者への弔いである。そして、この「弔い」とは、遺された者が、こうした悲嘆を心のうちに抱えながら営むものだ

亡くなって四十九日の法要までは御霊前、その後は御仏前を使います。
お通夜も葬儀もご霊前の袋を使います。

お寺で四十九日の後に仏になると聞いたことがあります。

葬儀の前の晩に徹夜で祈るのが通夜ですね。

亡くなってから彼の岸にたどり着くまでが49日かかると言われています。
この期間を忌中といい、霊の世界です。
49日の葬式で、仏様となって彼の岸に入ります。
ここからは喪中となり、仏の世界です。
忌中はご霊前、喪中はご仏前です。
お通夜は亡くなられた方を見守るのです。
お葬式では、亡くなられて戒名を貰うのです。

関係あるのかどうか知りませんが。
死者は「いつ」死者=仏様とされるのかご存知ですか?確か通夜の頃は「仏様」ではないはずですよ。そして通夜から次の日の葬式に向けて、葬式の前に北枕にし、仏様になるはずです。魂が残る、まだ仏様になってないから、魂の前=霊前、もう抜け殻となり、魂が抜けたあとの仏様だから仏前、そういうことじゃないでしょうか?
言葉の使い方は知りませんが、「仏様になるタイミング」なんて、人間数年以上生きれば親族の葬式くらい遭遇しますから、そうじゃないかな、くらい誰でも知ってますよ。そんなことは、「仏道」には従えど、「葬儀屋」は知ってるのかどうか・・・

幽霊の、頭についている、三角のふんどしを逆さにした様なものは何ですか? 宗教...

幽霊の、頭についている、三角のふんどしを逆さにした様なものは何ですか?

宗教的なもの?でしょうか。

葬儀屋です。

「天冠(てんがん)」と言います。

日本の仏教は中国から伝わりました。
中国では正装には必ず冠が必要でした。

死者がこれから閻魔様に会いに行くのに正装でなくては失礼になる。でも日本の庶民は冠なんて持っていませんでしたので、簡易の冠として付けるようになりました。

幽霊の格好は、死体に着せる死に装束のイメージをそのまま反映してる。つまり、あれは死に装束の一部。

宗教的なものだったんだと思うけど、最近じゃ習慣というかなんと言うか…。

死装束の頭巾というもので、幽霊というよりは、
亡くなった方への冥土に旅立つ衣装というところでしょうか。

「手を染める」のに「足を洗う」のはなぜ?

「手を染める」のに「足を洗う」のはなぜ?

悪いことなんかをはじめる事を「手を染める」と言いますよね。
ですが、それをやめるときは「足を洗う」と良く言われます。
なぜ、手を染めたのに足を洗うのでしょうか?
いつも疑問に思ってます。
誰か知ってる方がいたら、教えてください。

「手を染める」の語源は、「一度染色屋という商売を始めると、その手は一生元に戻らない」ということからという説があります。
ただ、「染める」ではなく「初める」が元々の意味だというのが有力な説で、「手を初める」が当初の表現で、新しい事とりわけ商売などに着手するというのが元来の意味合いだったようです。
一方、「足を洗う」の語源は、仏教で裸足で修行に歩いた僧は寺に帰って泥足を洗うことで俗界の煩悩を洗い清めて仏業に入ったことから悪い行いをやめる意味に転じました。

つまり、染物と修行僧という別の事柄が語源になっているために手と足になってしまったのでしょう。
ちなみに、中国では「手を染める」「手を洗う」という表現をするそうです。


香典袋に、蓮(はす)が描かれているのはなぜですか?

香典袋に、蓮(はす)が描かれているのはなぜですか?

仏教での葬儀(法事)に使う袋に印刷してあるのは「蓮(はす)」ですが、
バラでもユリでも、特に日本なら菊でも良さそうな気がするのですが。。。

蓮は、泥の中にありながら、決してその泥の色には染まらず、優美な花を咲かせます。
汚れた泥の中に、根を張り・茎を伸ばし・成長しますが、花だけは純白で綺麗なのです。
このことが、仏教においては、
「汚れたこの世(濁世)においても、法(教え)の花(さとり)を開かせる」の喩えとされるのです。
ですからあらゆる場面において、蓮が登場(描かれ)し、その象徴とされているのです。
多くの仏像は蓮の花を台座にし、天女は蓮の花を持ち、蓮のはなびらを撒くように。。。
あくまで、蓮は花の女王(聖なる花)であって、決して不吉な花ではないのです。

蓮台(れんだい)本尊は蓮の花の形をした台座に安置される)

散華(さんげ)落慶法要等には蓮のはなびらが撒かれる

(参考までに)
「一蓮托生(いちれんたくしょう)」という言葉があります。
この言葉の意味は、「死ぬ時は一緒、最後の開き直り」ではなく、
「極楽往生を遂げた後、極楽にある蓮の花の上に生まれ変わると」いう意味です。

(余談ですが)
泥に染まらず美しい花を咲かせる蓮の花は、古くから特別の印象を与える存在だったようです。
蓮の花の御利益を願って、食用・薬用に利用されたのは相当古い時代からのようで、
2000年前の≪神農本草経≫には既に、その記事が載っているということです。
また、世界中でも、さまざまな象徴として扱われています。
中国では古来、君子の花として尊ばれました。また現在でも美人の喩えとされています。
ヒンドゥー教では、命を宿す存在として現れた「始まり」の花。
エジプトでは、太陽神オシリスの花。
ギリシャ神話では、ヘラクレスに捨てられ、ナイル河に身を投げて死んだニンフの肉体
といわれています。

蓮の葉っぱに載って極楽浄土へ行く。

仏様が仏殿とかでは蓮の花の上に載っているから。
さらに蓮の根元は泥の中。泥の中はあの世。蓮の花はあの世とこの世を繋ぐ聖なる花かな。
蓮の茎には空気穴が開いているのもその通り道だといういわれがあったような……。

つながらない日本語でゴメン。

蓮は、仏教とかかわりの深い花として有名で、アジアの多くの国の国花となっています。インドでは蓮はもっとも神聖な花とされています。仏陀の誕生を告げて花が開き、仏陀は蓮の花に立ち「天上天下唯我独尊」と第一声をあげたと言われています。また、中国では蓮は俗人に染まらない君子の花。極楽世界は蓮の池であると信じられています。大輪の蓮の花が咲き誇る様子は極楽浄土の象徴となり仏教を切り離せない花になりました。

仏教では釈尊が蓮華の上で瞑想する絵が描かれ、極楽浄土の象徴とされているからです。
蓮を聖なるものとするのは仏教の前身であるヒンドゥー教の頃からで、泥から生え気高く咲く花、まっすぐに大きく広がり水を弾く凛とした葉の姿が、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴のようにとらえられたからだと言われています。

蓮が描かれた香典袋は仏式のお葬式でしか使えません。
神式では白無地に結び切り水引、キリスト教では白無地か、白百合や十字架などが印刷された市販の封筒(水引なし。ただしあっても気にしない場合も多い)です。


日本語の50音の母音はなぜ「あいうえお」の並びなのですか?音声学的には「あえ...

日本語の50音の母音はなぜ「あいうえお」の並びなのですか?
音声学的には「あえい」が口の開きが大から小へ、「おう」が口の開きの直径が大から小へと徐々に変化するわけで、歌の発声練習は「あえいおう」の順序ですし、タガログ語など外国語の中にも5母音の言語があり、そこでも「aeiou」の順序で母音を教えており合理的だと思います。

なのになぜ日本語だけは「あいうえお」なのでしょう。何かそうした方がよい都合があるのでしょうか?またはその順序に固定した経緯があるのでしょうか?

仏教に伴って入ってきた サンスクリット語(梵語)の発音表を手本にしているからです。
日本語以外に、インドの諸語など 今でも辞書でこの順番に配置されている言語はいくつかあるようです。

母音の「ア」「イ」「ウ」は口の開きが大きい順で、
サンスクリット語の「エー」「オー」は常に長音の母音だったため、後ろに持ってこられました。
(二重母音の「アィ」「アゥ」から変化したものだったため。)

因みに 子音のほうは、発音する際に空気が擦れる位置が 喉の奥にあるものから口先へと 順に並んでいます。
現代のハ行は唇を合わせない発声だったりして(戦国時代くらいまではパ行に近い発音だった)、
50音図ができた当時の日本語とは若干 発音が変わっているため、きれいに対応しなくなっていますが。
半母音のヤ行・ラ行・ワ行は、これも他の子音とは性質が異なるので 後回しに置かれています。
、子音の配列にまで言及していただいた方を選ばせていただきました。他の方も同様に感謝しております。

古代インドのサンスクリットの音韻の学問「悉曇(しったん)」に由来すると思われます。
基本の母音は「a, i, u」の三つ。
「ai」が変化して「e」、「au」が変化して「o」が出来ましたが、これらは二次的なものなので、基本の母音の後に置かれたのです。
現在の配列になったのは室町時代以後で、サンスクリット語の影響を受けたようですね。


「あいうえお」と並べる必然性は何もなくて、「いえうおあ」でも「うおあえい」でもいいわけである。実際、過去の文献の中には五十音を現在とは全く異なる配列に並べたものも見い出される。

現在の配列になったのは室町時代以後である。

この配列になった理由付けとして有力なのは、サンスクリットの音韻学(悉曇学)による影響である。

(サンスクリット語の)母音をローマ字で表すと「あいうえお」の順に並んでいる。


ハス〈蓮〉は東洋でどのような意味があるか教えて下さい

ハス〈蓮〉は東洋でどのような意味があるか教えて下さい

・アジアの多くの国の国花となっている。
・仏教では西方浄土の極楽は神聖な蓮の池、と
信じられているため、寺の境内にハス池を
つくって植えるようになった。
また多くの仏典に「蓮華(れんげ)」の名で
登場し、仏像の台座にもその形がよく使われる

お釈迦様が生まれたんでしょ?ちがったっけ?

穢れた土から無垢な花を咲かせる事から連想させて、

穢れた社会でも蓮の花のように生きるようにと言う仏教の思想的意味があります

喪中の定義を教えてください。私の祖父(母方)が今年亡くなったのですが、やはり...

喪中の定義を教えてください。
私の祖父(母方)が今年亡くなったのですが、やはり喪中ですか?
母は「年賀状出しても良いのでは?」と言ってますがどうなんでしょう?
職場関係は、忌引扱いで休みを頂いているので、喪中はがきを出そうかと考えているのですが、友人には年賀状を出そうかとも考えています。(赤ちゃんが産まれたのでその報告も兼ねて)。
しかし、喪中はがきも出して年賀状も出すというのはおかしいですよね?
いっそのこと普通に全員に年賀状を送ろうかとも思うのですが、どうなんでしょう?

喪中とは「喪に服している期間」です。これは厳密には誰が亡くなったかで期間が異なるのですが、一番長いのが親が亡くなった場合の12ヶ月(もしくは13ヶ月)を喪中とするのが一般的です。これが祖父母の場合は3ヶ月と短くなりますので、例えば今年の1月に祖父が亡くなった場合は、4月には喪が明けますので年末の喪中ハガキは本当は必要ないのです。

喪中の場合は喪中ハガキを出し、新年の挨拶をご遠慮するのがしきたりですが、年賀状はもちろん、新年会や落成式、婚約発表や結婚式などに参加するのは控えます。

また、喪中に年を越す場合は、門松や注連飾り、鏡餅などの正月飾りや年始参りもしません。初詣として神社に参拝することも控えます。つまり、喪中とは亡くなった方への礼儀として身を慎むことのほかになりません。世間では年賀状だけ辞退して、新年会や初詣、お祝いの席へ参加している例が多くあるように見受けられますが、これはちょっとヘンです。

ちなみに、喪中と似ているものに「忌中(きちゅう)」というのがあります。仏教の忌日の考えに基づくもので四十九日の忌明け前を忌中といいます。忌中は喪中よりも更に身を慎む期間といえます。お歳暮やお中元が忌中にあたる場合は贈答はしませんが、忌が明けた後は喪中であってもお中元お歳暮はしても差し支えありません。

忌中、喪中については仏教の宗派によってまちまちなので、詳しく知りたい方は菩提寺の住職に聞いてみましょう。

祖父母が亡くなった時、うちは喪中にしませんでした。

私以外のいとこたちも。。。。もちろん、私の親や兄弟姉妹たちは喪中でしたが。。。

通常、喪中とされない範囲だとしても、悲しみが深く、とても新年を祝う気持ちになれば意場合など、喪中欠礼を出して、差しつかえありません。

逆に、喪中の範囲ですが、仕事上どうしても何賀状を出したり、新年の挨拶に回らなければならない場合などもあるかと思いますが、ご家族・ご親戚と話し合い、足並みが揃えば、とくに問題はありません。


日本から盗んだ文化財を自国の国宝にして返さ無くても良いのですか?

日本から盗んだ文化財を自国の国宝にして返さ無くても良いのですか?

文化財盗に「韓国ルート」、逮捕の韓国籍男が接点か
 重要文化財の仏画を強奪しようとして、愛知県警などに逮捕、起訴された韓国籍の男が、別の窃盗団が盗んだ仏画を元の所有者に買い戻すよう持ちかけていたことが、同県警の調べで24日、分かった。

 同県警では、男の背後に盗品を扱う販売ルートがあるとみて調べている。

 逮捕されたのは、韓国籍の住所不定、金在七(キム・ジェチル)被告(48)(公判中)。2005年8月と昨年9月、愛知県御津町と福井県敦賀市の二つの寺で、国指定重要文化財の高麗仏画「絹本著色王宮曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくおうきゅうまんだらず)」などを奪おうとしたとして、強盗傷害罪などで起訴された。

 金被告は一昨年5月にも来日し、兵庫県加古川市の鶴林寺を訪問していたことが判明。幹栄盛(みきえいせい)住職(69)をソウル市内のホテルに呼びだし、同寺で02年7月に盗まれた国の重文の高麗仏画「絹本著色弥陀(みだ)三尊像」を買い戻すよう働きかけたが、金額が折り合わなかった。

 金被告は愛知県警の調べに対し、「ソウル市内のカジノで出会った、自称会社社長の『朴』と名乗る人物から『3000万円で買い戻させれば、600万円の報酬を払う』と持ちかけられた」と供述した。

 ◆不明の重文、韓国国宝指定も◆

 韓国国内では1995年、骨董(こっとう)品の鑑定番組が人気となるのと時を同じくして、古美術品の盗難事件が急増。ソウル警察庁は昨年、韓国各地で仏像や仏画2358点、80億ウォン(約10億5000万円)相当を盗んだ男を逮捕した。一方、日本国内で盗難で所在不明となっている美術工芸関係の国指定重文は、文化庁の昨年10月の調べで52点(国宝8点)。

 長崎県・壱岐の安国寺から94年に盗まれた仏教経典「大般若経」は、韓国で95年、国宝に指定された。日本政府は、韓国政府に調査協力を依頼したが、ソウル中央地検は、最終的な購入者が盗品とは知らずに買ったもので、民法上の「善意の取得」と判断。経典は日本に戻っていない。

 文化庁によると、国内の文化財の警備状況は、博物館を除き手薄。「盗まれないよう自衛を呼びかけるしかない」のが実情だ。(ソウル支局・中村勇一郎、中部社会部・半田真由子)

(2007年2月25日3時7分 読売新聞)

文化財泥棒は最低ですね、しかも知っていながら国宝に指定する国って?ですね。

韓国では窃盗者も相手が日本なら愛国者とされます。

なんせ暗殺者のアンジュンコンを英雄として切手まで出してる国ですからね・


やっぱセンシンコクじゃないね。

返すのが筋です、タダとは言いませんから

盗品国宝って・・・・発展途上国でもしないでしょうね

泥棒先進国ですね

さすが泥棒大国ですなぁー、何でもパクるのが民族の誇りですか?

それにしても日本政府は情けない・・・・・

米占領軍も、持ち出していますが、そのままになっていますよ・・・

大英博物館もルーブル博物館も盗品の山ですよ。
去年、エジプトに行ったら、エジプト人が怒っていた。


宗教の王者はどこニャ

宗教の王者はどこニャ

宗教の王者はどこニャ

アンチらに質問ニャ。
宇宙ー素晴らしい宗教は、どこニャ?

ただの大工の倅や色坊主や負けっぷりのいい日本神道かニャン?

それらの間違ったものを信じてるクズは、一人残らずニャンニャンニャ!
無信仰もバカニャン、同じくニャンニャンニャ!!

宗教の王者はただひとつ、創価学会ニャン
わかったか、カスども。

もう一回聞くニャン

宇宙の王者で、世界190カ国、指導者が数え切れない勲章をもらっ

宗教を宗教書、宗教本とした場合の王者は聖書です。
ユダヤ教(旧約)もイスラム教(コーラン)もこの姉妹叛ですから、合わせれば、世界の信仰者の50%は同じ教科書を使っているということであり、圧倒的であります。

で、最後に世界が一丸となってバベルの塔を再建するべき時期に用いられる一つの言葉(教え=共通の価値観)としての出番を待っている、ということを秀思學は信じています。

新興宗教等の誕生は、神の働きである奇跡によって信者を増やし、教えも出されるのですが、ある程度の大きさになると、奇跡が減少して教線の拡大はストップします。過去2000年間こうであって、これは、気付けとしての宗教は出すが、他の教科書が出てきて、複雑になって、人々が迷ってしまわないようにという神の愛のコントロールが働いていると理解しています。

仏教の聖典は何千巻もありますが、キリスト教信者の少ない日本においてもただ一冊の聖書の中の言葉の方がよく知られているという状態です。つまり、あまりにも分厚い本は中々読み始める気にならないという逆手の神の智慧が働いているのではないでしょうか。

宗教本としての王者は聖書であります。ですから聖書を正しく伝える団体が、宗教団体の王者となるでしょう。しかし、それは教会ではない、とイエス様ははっきり予言しています。
ペテロが初代教皇となりましたから、聖書ではペテロが教会の象徴として書かれ、イエスからペテロへの戒めがあり、教会がやがて反キリストになると言っています。

「おまえはやがて、他人に腰紐を結ばれて、行きたくないところへ連れて行かれるであろう」とか「鶏が啼くまでにペテロは三度イエスを知らないといった」ことも、収穫の秋には、教会はイエスの随行者ではなくなっていると予言されたのです。

ミケランジェロの最後の審判でも、蘇ったイエスに銃口を向けているペテロが描かれています。これは鍵を持っていると説明されていますが、間違いなく銃口を向けているのです。
この根拠は、最後の審判の絵全体は髑髏(収穫の審判の地球が閉じる秋)の顔になっています。そして、画面に向かって左側が救う者と救われる人々が描かれ、右側は引き摺り下ろされる人々や、尾を持った悪魔達が描かれています。ペテロは右側のグループに描かれているのです。そして、なによりも憎悪を露にしてイエスを睨みつけています。

ヨハネは救う側の左側に書かれています。去年6月に発表されたユダの福音書では、アイオーンの全てを輝かす雲が現れるとありました。マタイ、マルコ、ルカの福音書に書かれた、イエスの衣と顔を輝かせたのは、アイオーンという名であったことが発表されたのです。人間を考案した天使サクラもこの雲の中に住むとあります。
櫻は日本の国花であり、アイオーン=あいうえお〜ん=48音=ヨハネ=夜(外)を撥ねて與羽根する=虫が蛹になって羽化して天に飛び帰る変容の如し、の智恵は日本語の言霊にあり、ということなのです。ことば=神=光=日出国

イエス=聖書を変容(蘇える=読み替える)させたのは、光る雲の衣である、で、着物は殻ですが、衣はゝ(主神)を支える人の気ヌで、真実の信仰です。この真実があれば非を昇華させることが出来る、で「裴」の字に目覚める秋なりを教えるために、韓国(殻魂)のぺ、ヨンジュンによる「冬のソナタ=冬に蘇成魂」の神示を卸されたのです。キリスト教=耶蘇教=蘇える=二度読まれる教え

つまり輝く衣=アウル(霊衣=法被=ハッピー=幸=あを得るん=あ、んの神人不二)、に目覚めよ、です。これはトヨタ自動車の前身がころも(挙母=母神孝行)自動車であり、豊田(副=殻田=産業革命の開花)に愛知(開智=蜂酉)を磨くことなり、です。

トヨタ自動車が好調であるので日本の経済は保たれていることは、裴に勇俊して、世界の智恵の光として日本人が立ち上がってくれるであろうという神の期待の表れなのです。
イザヤ書には、天空に花実をつけない地の花実は枯らされるとあります。これは南無妙法蓮華経に通じ、水上の睡蓮とは天に真珠の魂を届けることなのです。蓮の実は銀白色で真珠色であることもきちんと通じているのです。

ついでに;勲章云々とありますが、何事も他人の評価ではなく、自分で美醜善悪、本物と偽者を選択して、勲章に値するかどうかを決める審美眼を養うことをミーちゃんハーちゃんを卒業して大人になるといいます。

《秀思學》


宇宙の王者ゴットマーズ

宇宙の王者グレンダイザー

信者数、世界への影響力を考えればキリスト教でしょうね。ローマ法皇は会えたら名誉という位置づけですから、
>勲章をもらってる指導者
ではなく勲章をあげる方でしょうね。

あなたが創価学会が一番とお思いであるのならそのとおりだと思います。
自分の確固たる信心をお持ちのようで素晴らしいですね。

キリスト教が一番と思ってらっしゃる方にとっては、キリスト教が宇宙一。
イスラム教が一番と思ってらっしゃる方にとっては、イスラム教が宇宙一。

自分の心のなかでゆるぎない確信があれば、誰かに確認しなくともあなたが信じる宗教が間違いなく本当の一番です。
迷いが生じたのなら祈り考えることです。ご本尊の前で、また十字架の前で、もしくはメッカの方角に向かって。

資産10兆円の我が学会をなんと心得るか。この機会にトクト教えるがな
これが世界中の国家とそ地域数約210カ国の上位何位であるかを知ってからものを言い給え。
ワシは家の構えは信者の手前、貧しくしてあるが、恐らく世界一のその道の王者だョ。
わしに背くものは即首だ。

参考まで、世界の宗教人口・
キリスト教・・・・・19億人
イスラム教・・・・・10,3億人
ヒンズー教・・・・・・7,6億人
仏教・・・・・・・・・・3,4億人
神道・・・・・・・・・・0、3億人
シーク教・・・・・・・・0、2億人
ユダヤ教・・・・・・・・0,13億人
立正佼成会・・・・・0,12億人
創価学会・・・・・・・0、08億人
儒教・・・・・・・・・・・0,06億人
その他・・・・・・・・・20億人(無宗教を含む) 

勲章・名誉・金・権力−全ては凡人が欲得だけで、欲する形だけのものでしかない。

勲章?誰からもらうのですか?金?誰の金ですか?
自分に自信がない人間ほど、そういうものに頼らざるを得なくなるのでは?そういう鎧や飾り物を身に
纏い、本当の自分をさらけ出す事が恐いのでは?

第一、曲がりなりにも「宗教」を語る人が「ニャンニャン」などと、ふざけた語り口調で質問なり、回答
なりすること自体、既にその人が信じているものの儚さを感じてならないが。また自分が信仰している
以外の宗教や信徒に対して「クズ、カス」などと罵倒する事も、既に宗教そのものの本質から逸脱し
ているとは思えませんか?

宗教に王者はいません。優劣と正邪のみですよ。貴方の質問の言葉・態度、そのものが答えです。

宗教を過信することなかれ。
王者と自らを称する宗教は王者にあらず。
真なる王者たる宗教はまだ存在せず


仏教についてです。今、私は種字とその文字が表す仏様について調べています。胎...

仏教についてです。
今、私は種字とその文字が表す仏様について調べています。
胎蔵界曼荼羅の種字曼荼羅があるとお聞きしましたが、どこへ行けば見せて頂けるでしょうか。
また、その種字が表す180尊の仏様とそれぞれの真言を知りたいのですが、よろしくお願いいたします。
どのカテゴリで訊くのが適当かわからず、ここにしました。

種字とは多分凡字のことですね
釈迦や不動明王でも1文字で表しますね

刺青やTシャツでも凡字が流行しています



仏教(ぶっきょう、佛ヘ)



仏教(ぶっきょう、佛ヘ)は、約2500年前(紀元前5世紀頃)にゴータマ・シッダッタ((パ)Gotama Siddhattha)(ガウタマ・シッダールタ((梵)Gautama siddhaartha))(釈迦)が現在のインド北部ガンジス川中流域で提唱し、各地に広まり現在も続く世界宗教。キリスト教・イスラム教と並んで世界三大宗教のひとつ。

概略

語義
仏教「佛教」(ぶっきょう)とは、仏陀(ブッダ)の説いた教え、仏(仏陀、覚者、真理に目覚めた人、如来)の宗教、また、仏に成るための教え。近世では広く釈尊(しゃくそん)(釈迦如来)を開祖とする宗教のことをさす。

仏陀、仏(佛陀、佛)とはサンスクリット語の目覚めた人、覚者(かくしゃ)、真理を悟った人を意味する buddha を中国語の漢字に音写した言葉であり、「神」、「預言者」、「神の僕」の意味ではない[1]。仏教の歴史においては仏教の開祖シャーキヤムニ(釈迦牟尼、釈尊)をさす。仏陀とは仏教の教理上では、悟りには普遍性があるが故に、広く修行者によって達成可能な目標とされている。

仏教(佛教)と同じ意味を表すのに、「仏法」または「仏道」の語が多く用いられる。法とは真理、教えのことである。道とは菩提、究極の真理のことである。仏教徒にとり、法は、仏や僧とともに三宝のひとつであり、大事にしなければならぬ宝物の如き存在である。


無我・煩悩
仏教では、個人が自ら真理(法=ダルマ、ダンマ)に目覚めて「悟り」を得てゆく過程が重視され、最終的には「自分として執着している自我(アートマン)は実体ではない(無我)」と覚り、苦の束縛から解放されること(=解脱)を求める。

一般にこの境地を涅槃と呼ぶが、これはエゴイズム・煩悩の炎に自分がコントロールされるのではなく、自分がエゴイズム・煩悩の炎をコントロールできる状態である。なお大乗仏教においては、自身の涅槃を追求するにとどまらず、苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)への救済に対する誓いを立てること(⇒誓願)が主張されるが、特にこの「利他行」の強調が大乗仏教を上座部仏教(=部派仏教)と区別する指標として重要視される。


輪廻・涅槃
釈迦(釈尊)を仏陀 (Buddha) と尊崇し、その教え(法)を理解し、禅定(ぜんじょう)などの実践修行によってさとりを得、煩悩をのぞき、輪廻の苦から解脱(げだつ)して涅槃の境地に入ることを目標とするが、この涅槃の境地に入った存在を仏とよぶ。

なお、(特に初期仏教においては)菩薩とは仏になることを目指す修行者のことを言う。その教えから、根底にニヒリズムがあるように思われるが、煩悩を滅することにより、この世の現実の姿(実相)を感得しようとするもので、自己否定をするものではなく、一切を肯定しようとする面が強い。

さらに大乗仏教においては、道元のいう「自未得度先度佗(じみとくどせんどた)」(『正法眼蔵』)など、自身はすでに「涅槃の境地へ入る」段階に達していながら仏にならず、苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)への慈悲から輪廻の中に留まり、衆生への救済に取り組む面も強調・奨励される。これにより、例えば弥勒菩薩や観世音菩薩などが仏典に描かれている。


仏像・念仏

ガンダーラ仏像また、初期仏教では、具体的に礼拝する対象はシンボル(菩提樹や仏足石、金剛座)で間接的に表現していたが、ギリシャ・ローマの彫刻の文明の影響もあり、紀元前後にガンダーラ(現在のパキスタン北部)で直接的に人間の形の仏像が製作されるようになった。これは、一説では釈尊亡き後の追慕の念から念仏が起こり、さまざまな三昧へと発展する過程で、その拠りどころとして発達したと考えられている。現在は如来・菩薩・明神・護法神など、さまざまな礼拝対象がある。一般的な仏教(顕教)では、仏像自体は宗教的シンボルとしてのみ意義がある。しかし後期大乗仏教の大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)では本尊という概念を導入し、自身と一体になる対象として扱われる。

真言門の菩薩行を修する諸菩薩を令て、本尊の形を観縁せしむるが故に、即ち本尊の身を以て自身と為す。  説本尊三昧品第二十八

特徴
仏教の教えの基本は、三法印(3つの根本思想)である。(三法印に一切皆苦を付加し、四法印とする経典もある)

諸行無常(一切の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある)
諸法無我(一切の存在には形成されたものでないもの、アートマンのような実体はない)
涅槃寂静(苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である)
一切皆苦(一切の形成されたものは、苦しみである)
釈迦の悟りの内容は、四諦と縁起及び無我である。
以下にその関係を整理された十二支縁起を示す。

無明(無知)
行(潜在的形成力)
識(識別作用)
名色(心身)
六入(六感覚器官)
触(接触)
受(感受作用)
愛(渇愛)
取(執着)
有(存在)
生(出生)
老死(老いと死)
これは、なぜ最大の苦である「老死」の不安の下で生きているのかの由来を示すと同時に、「無明」の状態を覚醒する事により、「老死」が克服されるという根拠も示している。

このように仏教では、救いは超越的存在(例えば神)の力によるものではなく、個々人の実践によるものと説く。すなわち、釈尊の実体験を最大の根拠に、現実世界で達成・確認できる形で教えが示され、それにしたがうことを呼び掛ける。(あくまで呼びかけであり強制ではないことに注意)

このため、仏教での神は、六道を輪廻する一切衆生の一部をなし、輪廻という苦の中にある点では、他の衆生と同様、特別な存在ではない。このことから、釈迦も仏教の開祖ではあるが、既述の通り、セム・ハム系の「唯一神」のような全能な人格・超越者ではない。


歴史(仏教の伝播)



インドネシアのボロブドゥール寺院遺跡群に残る仏像釈迦が入滅(仏滅)して後、出家者集団(僧伽、サンガ)は個人個人が聞いた釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を行った。仏典は、この時には口誦によって伝承され、後に文字化される。

僧伽は、仏滅後100年ごろ、教義の解釈によって上座部と大衆部の二つに大きく分裂(根本分裂)する。時代とともに、この二派はさらに多くの部派に分裂する。この時代の仏教を部派仏教と呼ばれる。

部派仏教の上座部の一部は、スリランカに伝わり、さらに、タイなど東南アジアに伝わり、現在も広く残っている上座部仏教(南伝仏教)。このグループの仏教は、「自己の救いのみを目的とする」として、以前は後述の大乗仏教側から蔑まれ、小乗仏教と呼ばれていた。

紀元前後、在家者と釈迦の墓(仏塔、ストゥーパ)の守護者たちの間から、出家することなく在家のままでも仏となる教え(大乗仏教)が起こる。この考え方は急速に広まり、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・韓国・日本に伝わっている(北伝仏教)。またチベットは8世紀より僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入、その後チベット人僧侶の布教によって、大乗仏教信仰はモンゴルや南シベリアにまで拡大されていった(チベット仏教)。

「大乗」は小乗に対比される言葉であるが、これは大乗仏教を標榜する人たちが、僧院中心に活動していた仏教徒たちに対して蔑称として使った言葉である[2]。

7世紀ごろベンガル地方で、ヒンドゥー教の神秘主義の一潮流であるタントラ教(Tantra または Tantrism)と深い関係を持った密教が盛んになった。この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを仏を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができ仏となること(即身成仏)ができるとする。密教は、インドからチベット・ブータンへ、さらに中国・韓国・日本にも伝わって、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。

仏教の教えは、インドにおいては上記のごとく段階を踏んで発展したが、近隣諸国においては、それらの全体をまとめて「仏説」として受け取ることとなった。中国および中国経由で仏教を導入した諸国においては、「教相判択(きょうそうはんじゃく)」により仏の極意の所在を特定の教典に求めて「所依(しょえ・しょい)」としたり、特定の行(禅、密教など)のみを実践するという方向が指向されたのに対し、チベット仏教では初期仏教から密教にいたる様々な教えを一つの体系のもとに統合するという方向が指向された。

紀元前5世紀頃…インドで仏教が開かれる(インドの仏教) 
紀元後1世紀…中国に伝わる(中国の仏教)
3世紀…セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)
4世紀…朝鮮半島に伝わる(韓国の仏教)
538年(552年)…日本に伝わる(日本の仏教)
7世紀前半…チベットに伝わる(チベット仏教)
11世紀…ビルマに伝わる(東南アジアの仏教)
13世紀…タイに伝わる(東南アジアの仏教)
13〜16世紀…モンゴルに伝わる(チベット仏教)
17世紀…カスピ海北岸に伝わる(チベット仏教)
18世紀…南シベリアに伝わる(チベット仏教)

仏教における人間
「にんげん」とは、人の間と書く。「間」とは世間とか仲間という意味である。仏教の生まれた時代のインドでは、衆生は五趣(天、人、餓鬼、畜生、地獄)を輪廻すると信じられており、人はこの中の1つの世界に偶々生まれているに過ぎないのである。そして、この五趣輪廻の苦から解脱して永遠の安寧を得る事は出来ないとされていた。仏教は衆生がこの苦から解脱するための処世的な側面を持って開かれたのである。五趣はやがて大乗仏教の時代になると、天の中の闘争的な性格を具する阿修羅を人の下に置いて、六道というようになった。

天台宗などでは、さらに天の上に声聞、縁覚、菩薩、仏の四を加え、十界の教義を立てた。これによって善業を積んで転生しながら、次々と上の世界に生まれていけば、終に仏になり輪廻から解脱するという階梯が出来たのである。言い換えれば、人間は悟りへの途中の状態にあるという事が出来る。

さらに、人間誰もが仏心という心(仏性)を持っており、それを煩悩が取り巻いているために仏心が顔を出す事が出来ないという、本覚(ほんがく)という考え方も言われる。

『大正大蔵経』を創った高楠順次郎は「人間は未完成の仏である。仏は完成された人間である。」と表現している。


仏教の広がり



言語圏
伝統的に仏教を信仰してきた諸国、諸民族は、経典の使用言語によって、サンスクリット語圏、パーリ語圏、漢訳圏、チベット語圏の四つに大別される。パーリ語圏のみが上座部仏教で、のこる各地域は大乗仏教である。

サンスクリット語圏
ネパール、インド(ベンガル仏教、新仏教等)
パーリ語圏
タイ、ビルマ、スリランカ、カンボジア、ラオス等。
漢訳圏
中国、台湾、韓国、日本、ベトナム等。
チベット語圏
チベット民族(チベット、ブータン、ネパール、インド等の諸国の沿ヒマラヤ地方に分布)、モンゴル民族(モンゴル国、中国内蒙古ほか、ロシア連邦のブリヤート共和国、カルムイク共和国)、満州民族、トルコ系のトゥヴァ民族(ロシア連邦加盟国)等。

分布

各大陸の仏教徒数[要出典]

アジア : 4億人
南北アメリカ : 360万人
ヨーロッパ : 180万人
オセアニア : 40万人
アフリカ : 8万人
このように、世界宗教とはいえ、アジア(特に東アジア・東南アジア)に片寄って分布している。

仏教徒が1千万人以上いる国[要出典]

中国, 1億人
日本, 9千万人
タイ, 6千万人
ベトナム, 4千万人
ミャンマー, 3800万人
スリランカ, 1400万人
カンボジア, 1200万人
韓国, 1100万人


仏教用語一覧
悟り

仏教遺跡
仏教旗 (仏旗)- 左から青黄赤白橙の縦五色と、右端のみ同じ色順(ほぼ正方形)で並んでいる旗(橙が L 字型になる)。(en, zh)
聖徳太子

注釈
^ 漢文学者の諸橋轍次は、中国語の「沸」の字が「水にして水に非ず」を意味する如く、否定のニュアンスを持つ旁の部に人偏で、「佛」という語には「人にして人に非ず」の意味があると解釈している
^ 原語のHiina-yana(ヒーナヤーナ)は「劣った・小さい乗り物」という意味であり、もともと大乗・小乗の区別がインドでは明確ではなかったことが、いろいろな史料から知られている

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。